このページでは、明治時代の殖産興業における工場や産業の具体例を紹介します。
トヨタや日立などの令和の日本の大手企業の中には、明治時代の殖産興業によって生まれた工場を源流に持つ物が多くあります。
殖産興業は、西洋式の工場や機械を導入することで進められました。西洋式の機械を導入する際には、機械を設計するために「機械工学」と呼ばれる知識体系が必要です。このため「機械工学」も明治時代に西洋から日本に導入されました。
そこでこのページでは、以下の3つの特徴をもつ工場を中心に紹介しています。
1点目:明治の「殖産興業」に源流を持つ。
2点目:「機械工学」によって技術の国産化に貢献した。
3点目:「令和の企業」に関連する。
「殖産興業」「機械工学」「令和の企業」の関係
まず1850年代以降、国策である殖産興業では、西洋式の造船所や鉱山、紡績工場が日本に導入されました。
これらの産業は「西洋式の機械を必要とするビジネス」でした。その後、西洋式の造船所や鉱山、紡績工場向けの機械を製作する機械メーカーが日本に生まれました。
機械工学は、機械を生み出す西洋由来の知識体系です。このため西洋式の機械の導入と同時に日本に導入され、現代の東京大学や京都大学も機械工学の技術者養成に貢献しました。
このように機械工学はビジネスありきの技術として日本に導入されました。明治時代の日本の近代化において機械工学の果たす役割は大きいものでした。
殖産興業に前後する時代に生まれた会社の中には、トヨタや日立、三菱重工のように令和の時代においても存続しているものがあります。時代が移り変わっても、会社は社会で果たす役割を変えながら、ビジネスとして継続しています。
次に鉱山、造船所、紡績工場に分けて工場を紹介します。
図. 明治日本の産業革命遺産MAP(出典:「明治日本の産業革命遺産」福岡県世界遺産連絡会議事務局)。このページで紹介する長崎や佐賀の造船所は、世界遺産にも登録されている。
造船所:船をつくる(三菱重工業)
海に囲まれた日本では古くから造船所がありました。ここでは「江戸時代末」という時代の観点と「開港五港」という立地の観点の2つの観点から造船所を紹介します。
江戸時代末の造船所
江戸時代は大型の船の建造が禁止されていました。しかしながら、黒船をはじめとする相次ぐ外国船の出現により、大型の船の建造が許可されました。それに前後して、国土の防衛のために、西洋式の船を建造する造船所が相次いで生まれました。
ここでは江戸幕府と、薩摩藩、長州藩、佐賀藩の造船所を紹介します。
この時代の西洋式造船所は、国土の防衛のために設置され、技術の最先端でした。しかしながら、大手資本が注入されなかった造船所は、多くが明治時代までに廃止されました。
大手資本が注入された造船所は、長く繁栄し2000年代までは商船の建造も行っていました。しかしながら中国・韓国の造船所が成長した現在では、どこも護衛艦の建造がメインとなっており、商船の建造は行われていません。
中でも三菱重工の長崎造船所は、三菱グループが製造業に進出するきっかけとなりました。三菱重工からは三菱電機や三菱自動車が生まれています。
これらの三菱重工を起源とする会社は、令和の時代もエアコン、自動車、人工衛星、ロケット、艦艇、戦車、発電所など高い技術で世の中に貢献しています。
表. 幕末の造船所
造船所名 | 設立者 | 設立年 | 後継の造船所※ |
石川島造船所 | 幕府(水戸藩) | 1853年 | JMU(ジャパンマリンユナイテッド)磯子工場 |
浦賀ドック | 幕府 | 1853年 | 住友重機械 横須賀造船所(新造船撤退) |
桜島瀬戸村造船所 | 薩摩藩 | 1853年 | 廃止 |
恵美須ヶ鼻造船所 | 長州藩 | 1856年 | 廃止 |
長崎造船所 | 幕府 | 1857年 | 三菱重工長崎造船所 |
三重津海軍所 | 佐賀藩 | 1857年 | 廃止 |
横須賀造船所 | 幕府 | 1865年 | 在日米軍横須賀基地 |
開港五港の造船所
1850年代後半に、日本は交易のために5つの港を開港しました。
開港したのは函館、新潟、横浜、神戸、長崎です。
開港した港では、商船が行き交いました。修繕や建造の需要が生まれたため、5つの港には造船所が生まれました。
そこでこれらの造船所を開港した港と合わせて以下に記載します。
これらの造船所は、商船の建造も行っていました。しかしながら1970年代からの造船不況と、2000年代からの中国・韓国の造船所の成長により、現在では商船の建造はほとんど行われていません。
表. 開港五港の造船所
造船所名 | 都市名 | 設立年 | 後継の造船所※ |
函館船渠 | 函館 | 1896年 | 函館どっく |
新潟鐵工所 | 新潟 | 1895年 | 新潟造船 |
石川島造船所 | 横浜(東京) | 1853年 | JMU(ジャパンマリンユナイテッド)磯子工場 |
浦賀ドック | 横浜(浦賀) | 1853年 | 住友重機械 横須賀造船所(新造船撤退) |
横浜船渠 | 横浜 | 1891年 | 三菱重工 横浜造船所(廃止) |
浅野造船所 | 横浜 | 1916年 | 日本鋼管 鶴見造船所(廃止) |
兵庫製鉄所 | 神戸 | 1869年 | 川崎重工 神戸工場 |
三菱神戸造船所 | 神戸 | 1905年 | 三菱重工 神戸造船所 |
長崎造船所 | 長崎 | 1857年 | 三菱重工 長崎造船所 |
鉱山:鉱物資源を掘る(日立製作所)
明治に入り日本国内でも西洋式の鉱山開発が進みました。
産業の近代化のためには金、銀、銅、石炭、石油などの鉱物資源がより多く必要となります。鉱物資源は鉱山で掘り出されます。
そこで、明治時代には機械を活用し効率的な西洋式の鉱山が日本に導入されました。
例えば佐渡金山は江戸時代から続く金鉱山でしたが、明治期に三菱資本となると機械化が進み、昭和期に産出量が最大となりました。
西洋式の鉱山開発には、機械化が必要でした。そこで鉱山開発の行われる土地の周辺では、機械工業が生まれました。
国内では閉山した鉱山が多いですが、鉱山から生まれた機械メーカーは形を変えながらも現在も存続しています。
中でも日立製作所は、現在では情報技術を活用した企業に転身し、破竹の勢いで社会イノベーションを進めています。
表. 鉱山が発祥のメーカー
鉱山 | 鉱山機械から 生まれたメーカー | 所在地 | 設立年 |
別子銅山 | 住友重機械工業 | 愛媛 | 1888年 |
INPEX(尼瀬油田/新津油田) | 新潟鐵工所(解散) | 新潟 | 1895年 |
足尾銅山 | 古河機械金属 | 栃木 | 1900年 |
久原銅山 | 日立製作所 | 茨城 | 1910年 |
筑豊炭田 | 安川電機 | 福岡 | 1915年 |
遊泉寺銅山 | 小松製作所 | 石川 | 1917年 |
紡織工場:糸を紡ぎ布を織る(トヨタ自動車)
幕末から明治にかけて、衣類を作成する西洋技術が日本に導入されました。
衣服は織布から作られます。また織布は糸から作られます。
衣服は人による好みなどがあり、多様な製品が好まれます。一方、織布は工業用品として生産が可能です。このため西洋では、均一な織布や糸を大量に生産する機械が生まれました。
この織布・紡績工場の経営から生まれたのが、トヨタ自動車です。
紡績とは糸を紡いで作ることです。また織布とは布を織って作ることです。
トヨタ自動車の源流は、自動織機という機械を作る事業です。自動織機とは、自動で布を織る機械です。また、このトヨタの自動織機の事業は、織物・紡績工場の経営から生まれました。
実はトヨタは織物・紡績工場の経営の前に、自動織機の会社を設立しています。しかしながら、この自動織機の会社は上手くいかず、企業として現在のトヨタに繋がることはありませんでした。
現在のトヨタの自動車事業は、紡績工場を運営する中で培った織機の技術に源流があります。紡績工場の運営で、織機事業も軌道に乗り、自動車事業へと展開しました。
令和の時代もトヨタは世界最大の自動車メーカーとして、世の中の人々の移動や豊かな生活に貢献しています。
なお、トヨタの織物・紡績工場があった場所に現在はトヨタ産業記念館が立地しています。
表. トヨタの歩み
年 | できごと |
1891年 | 豊田佐吉として初めての特許取得。 |
1896年 | 豊田佐吉が動力織機の試作を完成。 |
1898年 | 豊田佐吉が日本で初めての動力織機の特許を取得。 |
1907年 | 大手が出資し豊田式織機株式会社設立。 |
1910年 | 豊田佐吉が豊田式織機株式会社を退社。 |
1914年 | 豊田佐吉が紡績工場を独自に設立し稼働開始。 |
1918年 | 工場を豊田紡織株式会社に改組。 |
1926年 | 豊田自動織機製作所が豊田紡織から独立。 |
1937年 | トヨタ自動車工業が豊田自動織機製作所から独立。 |
まとめ
このページでは、大手企業にゆかりのある造船所や鉱山、紡織工場を紹介しました。
幕末から明治にかけた国力増強のため、西洋式の工業が導入されました。そして、現在の大手企業の中には、その時代の流れにのって誕生したものも多くあります。
一度、一つの会社の事業が上手く行くと、その会社に技術が蓄積され、社会的な役割が明確化されていきます。しかしながら、時代の流れによって、社会の価値観が変化します。
各社が保有する技術が、「社会の価値観」や「社会的な技術トレンド」によって決まるとすると、時代によって必要とされる技術は変遷することとなります。
機械工学は社会に必要な技術です。また大学教育における機械工学も、個人に論理的な思考や尖った技術を授けることから、社会的に素晴らしいものと思います。人間は物理的な肉体を持ちます。そして肉体を持つ人間から社会は成り立ちます。このため、物理的な機械を生み出す機械工学は、永遠に社会的な価値の生産に貢献し続けるはずです。
しかしながら、機械工学の果たす社会的な役割は時代と共に低下してきているように思えます。
このため現代社会で機械工学を学んだ個人の生き方として、機械メーカーで活躍することのみが活躍の場ではないことは確かです。各個人が、今の時代に社会が求めることを感じ取ることが、これから更に求められると思います。
機械工学はビジネスありきの技術として日本に導入されました。この歴史を概観することで、これからの時代においても社会に貢献する技術やビジネスは何かを考える際の材料としていただけたらと思います。
参考書籍・サイト
■幕末~明治初期一般の情報
幕末~明治初期の一般的な情報は、以下の岩波新書の書籍を参考としました。
■造船について
・三菱重工長崎について
・IHI播磨について
・IHI、JMU磯子について
・住友重機械、浦賀について
・薩摩藩の造船所について
■鉱山について
・新潟油田、新潟鐵工所について
・別子銅山、住友重機械について
■紡績について
・トヨタについて
この豊田紡織から豊田自動織機製作所が生まれ、さらに豊田自動織機製作所からトヨタ自動車工業や愛知製鋼が誕生し、現在のトヨタグループを形成する各企業が派生していった。豊田紡織は、現在のトヨタグループの基になる会社である。
自動織機製造事業への進出経過を振り返ってみると、まず豊田紡織の修繕工場で自動織機試作機を製作し、ついで完成モデルのG型自動織機を小規模な日置町修繕工場で一貫生産した。その後、豊田自動織機製作所の新設織機工場で量産化(月産300台)を実現した。
・繊維工業一般について
・紡績業について
https://core.ac.uk/download/pdf/143642379.pdf
・双日の紹介文
・生糸について
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9334/HNkeizai0001900570.pdf